スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか

シゾイドと主義主張

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信念や主義主張を持たないことを普段の心がけにしている。こうあるべきだとかこうじゃなきゃいけないとかいう感情は、ストレスの原因になるし、しかもそれらべき論は内面に留めることが難しく、外部への怒りになりやすい。

主義主張を持たず、自分一人でできること以外を一切望まないようになると、他人に腹を立てることがなくなる。攻撃行動や自由を奪う行動をしてこなければ基本的にすべてを放任し、肯定する。この姿勢を貫くと周りは平気で私のことを優しい人格だと評するようになる。確かに、他人の言動に非難や批判を向けることがないから慈悲深いように見えるのだろう。そういう意味では、私は無害な人間といえる。無害な人=いい人というのが組織集団での 対人評価なのだとしたら、周りの評価もまあまあ正しいものなんじゃないかという考えに至る。

信念を持つことは一般的に世の中でよいことだとされる。信念を持つこと、目標を持つこと、何かを正しいと思うこと、それに向かって邁進すること、どれも学校・会社・家庭において、肯定される側の価値観だろう。共通の意思を持つことでまとまる人間の集団を考えれば、この傾向は自然といえる。ただしそれは逆に言えば「同じ信念を共有すること」が「相手の人格を認めること」になっていることでもある。こうあるべきだという信念について、それに追従・賛同してくれる人間のみを贔屓したり、評価したりする制度がこの世界に蔓延している。一見人格者である上司も、部下が自分の思考 に同調し、自分色に染まってくれるからこそ、優しかったりする。一度でも疑問を持ったり意見すれば、たちまち見捨てた態度を取ってきたり軽蔑的な眼差しを向けてきたりする人間は少なくない。

上下関係を好む会社の人間関係は概ねこれだといってよいかもしれない。友達関係もそうかもしれない。共通・共同・協同を前提とし、そこから逸脱する人間を排除しようとする価値観を共有することで、人は結束し、仲良くなる。排除される誰かがいるからこそ、それ以外の人間がまとまる。まとまることが良いことだと認識される限り、「人間はみんなバラバラで分かり合えない、それでいいのだ」という価値観は市民権を得ない。それゆえ、まとまることに反する者が常に攻撃され、排除され る状態こそが健全な社会・世界とされてしまう。

どうでもいいと思うことの最大の効果はそこにある。「私は○○についてこうあるべきだという考えがないですよ」と宣言する。それは同時に「特定の状態に対して不満を言ったり怒ったりしませんよ」と宣言していることになる。感情と攻撃、干渉を放棄しますと言っているわけだ。自分の人生に関わることは自分で考えて方向性を見出さなければいけないが、他者が関わり公の性質を帯びたものについて、執着する理由はどこにあるのだろう。私にはまったく理解できない。

運動会で勝つこと、クラブ活動で勝つこと、文化祭で賞を取ること、仕事を成功させること(評価が報酬に反映されない)、どれも家に帰ったら自分に は関係ないことだ。それなのに、自分に還元されないすべての構成員がそれに必死になり、イライラする。本当に意味が分からないし、私はそれらのどれにも一生懸命取り組んだことがないので、イライラしたことも必死になったこともそれらに感情を向けたことも一度もない。その代わり、誰にも攻撃したことがない。