シゾイドパーソナリティ障害の生存競争 Schizoid Personality Disorder

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか

シゾイドと社会人

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日本で使われている社会人という言葉は私が最も違和感を覚える言葉の一つだ。文字通りの「社会の人」という意味ではないからだ。社会人が指す対象は一般的に「労働者」である。「もう社会人なんだから」「社会人として」という言い回しは、「労働者なんだから」「労働者として」という言い回しに置き換えることができる。そして、これらの言い回しの後に続く言葉は「常識的なふるまいをしなければ」とか「責任のある行動をしなければ」とか「立派な人間に」とかであり、つまり「労働者」=「まともでなければならない」という理解を共通認識として相互に強いるための常套句となりつつある。この構造にまったく賛同できないので、私は「社会人」という言葉を一切使わない。納得できない理由は複数ある。

第一に、ここでいう「社会人」に求められる常識や振る舞いは、市民社会に生きる人間のすべてに共通するものであるからだ。労働者でない子供や学生や老人や主婦がこれらに想定される社会規範や常識を守らずに、たとえば約束を一方的に破棄したり、不誠実な行動をとっていいはずがない。仮にそれらが許容されるのであれば、学校やプライベートは無法地帯になってもよいという解釈になる。だとすれば「社会人」は「市民」であればよく、「市民として」で十分なはずだ。「市民」vs「社会」とすることに抵抗があるから「社会」の側に属することを強調しているようにしか思えないのである。

第二に、「社会人」として求められる「正しい振る舞い」が、非科学的だからである。ここでいう「正しさ」や「常識」は、日本型労働市場における「正解」を追及することであり、無限に仕事に傾倒し、滅私奉公の下、横並び社会を善とする時代錯誤な文化の強要だ。ブラック企業の経営者や経済界が法外な要求を労働者に求めたとしても、その責任が追及されることは極稀であり、往々にして「労働者」側の問題とされることが多い。社会人として社会の規範に従うことが常識とされるのであれば、「社会」や「規範」が信頼できる公正なものである必要があるが、ここで想定される社会は「労働社会のオーナー」であり、文化は「労働文化」であるわけだから、それが健全・安全なものでないことは容易に想像 できるわけだ。自殺の増加は統計からも確認でき、労働や学校生活の人間関係を起因とするものが目立っている(残念ながらその内訳までは検証できていないのでご指摘いただければ幸いです)。

第三に、「社会人」という概念が外国のどこにも存在しないからである。国際的な普遍性を持つ考え方ならまだそれを尊重する余地があるが、結局は日本の特殊な労働文化が生み出した造語に過ぎず、既得権側に都合がよい相互監視社会を形成するためのツールでしかないということだ。横並びが好きで権力者に媚びる傾向が強い日本人は、弱い者同士で他人に目を光らせるのが得意な生き物だ。学校がその典型で、このIT社会にありながらも意味もなく40人や50人が同じ環境に閉じ込められ、個性が潰され、能力も潰され、膨大な機会費用の損失を余儀なくされる。生徒はその構造に反発するだけの知識がないから、学級内ではみ出し者を炙り出し、虐げる。これがいじめの構造の一つだ。外国にもいじめは存在する が、日本のような「場の空気を維持するためのいじめ」は少ないだろう。