スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか

シゾイドと入試問題

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卒業式で答辞代表が泣いている。用意した原稿を読み上げることも難しいくらい号泣しており、周囲の人間ももらい泣きをしている。そんな場面を思い浮かべてみていただきたい。多くの人は、この朗読者がこれまでの学校生活を回想して感涙しているものと想像する。または、来る別れへの寂寥感に耐えられなくなり、感情的になっていると思うだろう。これが小説だとしたら、国語の問題に使われたとしたら、こうした出題がされ、こうした選択肢が正解となるはずだ。 

【問題】この場面で答辞を読んでいる生徒の気持ちはどのようなものか。 

【正解】これまでの学校生活を回想して感涙している。 

これに準じた解答となることに疑いの余地はあまりない。「答辞など読みたくもないのに無理矢理人前に立たされ、苦痛で涙を流している」という選択肢は絶対に正解にならないし、選択肢にすらならないだろう。日本の国語教育における小説問題の大半がこのような内容だ。行動から感情を読み取る訓練をひたすら強制され、作者以外の人間が正答を用意する。数値や論理的根拠によるものではない解説が、共通テストのようなものでも散見される。 目の前にいる人間の行動や態度だけでその人間の感情を理解することは不可能だ。行動で相手を理解できるのであれば、人間関係のトラブルがここまで生じることはないだろう。行動が相手の内面の様子を客観的事実として投影しうるものであれば、主観を相手に押し付けることもないし、他者に過剰な期待をすることもない。1分で30枚印刷できるコピー機に1分で100枚印刷することを期待する人間はいないだろう。それと同じである。 

人は相手を断定することが好きだ。相手に関する断片的事実を勝手に自分の中で再構築し、相手のキャラクターや人生を突然語りだす。台本通りに演じただけの芸能人のたった一言で、その人の波乱万丈人生バラエティが完成してしまうほどだ。本当に波乱万丈な人生なら、その人は今、台本に書かれた文字を読むことすらできないはずだ。波乱万丈という言葉だけが独り歩きする。「あいつはこういう人間だから」と友達や親や子供や配偶者にレッテル貼りをする。「あの人のことはわからない」といえば、薄情だと思われるのだ。 

「わからない」ことが悪いことであると解釈されることが多い。「あの人よくわからないよね」は、もはや悪口の1つだ。「よくわからない」=「自分は相手を受け入れない」と勝手に置換される。「よくわからない」ものを「受け入れたくない」から、「受け入れずにすむ」ように「想像で相手を断定」し、「わかる」ものへと変換する。わからないものだらけの世の中や人間関係のすべてが「わかったもの」とされ、妄想上の理解が進化し、その最終形態が「24時間テレビ」である。 「愛は地球を救う」という言葉。誰にでも理解できるこの言葉に本気で涙を流す人がこの国に多い。朝の通勤電車で小競り合いをする程度に心が狭い人でさえ、この世界観に陶酔する。愛とは何か、地球とは何か、救うとは何か、パーツに分解してみると面白い。どこに愛があり、誰が救うのか、これを明確にできる人はどれだけいるだろうか。国語の授業が全科目中最大であるにも関わらず、言葉の重みがわからない人間が量産されるのがこの国の実態だ。 

「苦労があったからこそ今がある」「障害を克服してこそ今がある」「恵まれない生い立ちが自分を強くした」「苦しんだけれど、貴重な経験だ」こうした言葉を、何の苦痛も味わうことなく既得権側にずっと鎮座していた人間が発している。得体のしれない他人様に関する物語を構築し、自分の中で勝手に納得し、それを周りに流布し、押し付ける。発信できる人間がますます支配的になってゆく。受信する側も無知になり、思考停止しても立場を守れるよう、権力に追従する。 

入試改革が行われ、多様性が重視されるようだ。国語は記述式が導入され、選択肢ではできなかった「精度の高い評価」ができるようだ。試験の内容に焦点が置かれ、誤魔化されているが、要するに「科学ではなく動物が、人の能力を評価するようになる」ということだ。既にお分かりいただけているだろうが、今の時点で国語の試験における選択肢には無数の「決めつけ」が施されており、マイノリティーが排除されるようになっているのだ。これらの操作主体が科学から人間に代わるということである。結果は容易に想像できるだろう。「答辞など読みたくもないのに無理矢理人前に立たされ、苦痛で涙を流している」が正解の1つになる日は来るだろうか。