スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか

シゾイドと幸福追求権

別館『スキゾイド雑記帳』も更新中です。 http://schizoid.hatenadiary.jp/


以前に比べて鬱病や自殺が目立つ。これを世代の弱さだと主張する人間がいる。それについて否定するつもりはないし、勝手にそう思えばいいと思う。ただ、私はそういう考えは持たない。たとえば、30年前の日本では、紙の書類を作るだけの仕事が正社員の仕事だった。黙々と決まった事務をこなしたり清掃をすることも正規雇用者としての役割だったのだ。コピーをとったり、計算をしたりという作業も同じだ。

これはどういうことか。圧倒的な雇用と正社員の安定の椅子が大量に用意され、単純労働への対価が今の比ではなかったということだろう。賃金水準も物価に対して今よりも高い。教育投資の還元率も大きかったと思われる。バブル時代は尚更その傾向が強く、賞与や賃金水準が今の比ではなかった。

今の人間が所有に小教区的であることを弱さと罵ったり、男性の恋愛市場からの撤退を草食系と非難する人々がいるが、一方的に男性優位なバブル時代の恋愛を模倣したり、家や土地などの固定資産を買い漁ったり、ブランドや流行を追いかけたりする行動が果たして今の社会構造下で当たり前のようにできるのだろうか。

男性の経済的優位性は逓減傾向にあり、固定資産獲得の基礎となるローンを組むという行為自体が、正規雇用の崩壊でできなくなってきている。構造的に異なる事情を個性の責任に帰結する極めて深刻な風潮であると思う。

労働の話に戻す。単純労働の対価が高く、絶対数も多く、持続的な活動をする権利がそれに付随していた時代には、たとえば、性格が暗かったり消極的な人間でも、普通に働くことができたはずだ。黙々と単純事務をするための正規雇用も存在したし、それ以前に大量に採用していたからだ。

ハラスメントに近い茶番を極めた就職活動を勝ち抜き、奴隷のような研修に耐え、最初から低賃金で責任のある業務や対人折衝などを多く含む濃密な人間関係地獄に陥れられるような今の正社員型無制限雇用制度では、就職を志す段階で少なくない人が門前払いを食らっている。まるで社会や老害大国に適応できない人間は生きる資格がないかのような物言いの面接官も多い。

権利や法律に関することなどの話をすれば感情的に非難される。金の話をすればやりがいとか社会貢献だとかいう曖昧な言葉を用いてはっきりさせるべきところをうやむやにされる。世界中で日本だけが、労働が契約であるという概念を持っていないのではないだろうか。これは義務教育が金の話を扱わないことにも起因するだろう。

今やこうした単純労働の担い手は完璧に非正規労働者だ。つまり、機嫌の定めなしに単純労働をすることは許されていないということであり、単純労働で一生を終えることを否定されているに等しいわけだ。非正規雇用で一生困らない経済状況を得ることができるなら話は別だが、現実は男性の奴隷労働型終身雇用でしか自らの子孫を残すだけの経済力をつけることは困難だ。

残念ながらこの傾向は賃金による金の分配が続く限り終わらないと思う。これほど人工知能が発達しながらも、いまだに人間は人間こそが至高の存在であると思っている。全員とはいわなくても、大半がそう思っているだろう。だからチャリティに涙するし、これだけいじめやハラスメントが起こってもSNSでつながりを求める人々が多い。

ロボットはハラスメントをしない。接待されなくてもきちんと業務をこなすし契約も締結する。私利私欲に溺れるような感情もない。人間は、自らの価値やこれまでの経験の正当性を主張するために今の世代をひたすら叩き、高度成長期やバブル時代を「良き時代」「正しい時代」と崇拝し続けるだろう。

そもそもバブル時代や高度成長期を壊したのはその世代の人間であり、今でいう高齢者世代だ。ゆとり批判はゆとり世代のせいでこんな世の中になってしまったというが、世の中を形成しているのはその前の時代の若者であり、ルールでいえばその作り手はその時の年配者だ。原子力行政のように後世に負の遺産を残してくれるのだろう。

人間に求められる付加価値は大きくなる一方だ。単純労働の削減と徹底的な低賃金化、若年層に対する社会的虐待である非正規雇用や使い捨て雇用、それによる正規労働者へのしわ寄せによって、教育投資の回収はもはや一部の職業を除いて不可能だ。

東京五輪の準備作業員が過労死した。あれもしわ寄せ社会の典型だ。就職で求められる力ももはや曖昧で、人間が人間を評価できなくなっていることがわかる。だからコミュニケーション能力などという曖昧な言葉や評価でひたすら弱者の若者をマウンティングし、既得権者や前世代のマウンティングに従順な人間だけしか生き残ることができなくなった。生き残っても電通の社員のように自殺してしまうこともある。

20代の自殺がここまで多く、自分を肯定できない子供が目立っている。中高生は自分に自信がないからSNSを使って他人を虐げたり企業のパワハラや学校のいじめのように他人を出来レースのようなやり方で虐げ、マウントをとり、大人も特定の国や思想にヘイトを剥き出しにする。

人間は自分より弱い人間に対してだけ攻撃的だ。遊び歩いている資産家の子供のことをセレブと持て囃し、生まれた時から貧困だったり家庭崩壊の中で生きていてやむを得ず生活保護を受給している人間には蔑視を向ける。

人間は歪んだ。ただ生まれただけでは全く受け入れられなのだ。赤ん坊に向けられる優しいまなざしも、20年後のその子には向けられない。となれば、この国や社会に生まれる意味は何だろう。

幸福を無条件に追及することを誰もが許されるわけではなく、それを獲得するためにさえ競争を強いられるのだとしたら、最初から生まれてこないほうが幸福なのではないだろうか。こんなことを考えながら、私も少子化に貢献していくのだろう。

趣味や余暇は多様化したが、社会は決して多様化していない。特に社会=労働である日本においてはそれが顕著に感じられる。ますます心の酸素が乏しい時代がやってくるのだろう。子孫を残さないという究極の結論がすぐそこに迫っている。