シゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか。

シゾイドと大学

労働者として生きていると、理由もなく不合理なことをしたり、慣習だからと言って意味もないことを延々としなければならないことが多い。一生は一度しかないのに時間を捨てるようなことを平然とする大人や、若者の若さに嫉妬して必死で苦労や苦痛を与えようとするシニア世代のオッサンたちにどこまでも拘束される。同じような生き方なんて経済情勢を見たらできないのが明らかなのに、今までの自分たちの生き方が世界のスタンダードとでも言いたげな押し付け合いを行う。

こんなボヤキは「社会人失格」と突っ込みを入れたがる意識高い系の餌食になるのだろうが、大卒である私からすると「無根拠に何かを模倣・崇拝・受容」するという行為自体にイチイチ違和感を覚えてしまう。

大学在学中は、何かを主張するには必ず根拠や理論を添えなければならなかった。少なくとも、そこそこまともな研究室に所属して勉強していれば、それくらいのことは最低限求められるし、自分の考えや行動を裏付ける根拠は必要だ。堅苦しいものではなく、「〇だから◇」のように、自分の考えに理由付けをするだけのもの。だから合理的に考えるし、道徳的な判断が必要なところにはきちんと感情や誠意を盛り込む。

就労した途端にそれが通用しなくなる。「去年はどうだったのか?」「メンツを考えろ」「格好がつかない」などという理由で建設的な意見や議論が潰され、その組織でしか通用しないローカルルールが法律に変わってゆく。「自ら考えて行動する人間がほしい」などと言いながら、悪い伝統や慣習には一向にメスが入らない。

ただ権力者や既得権者、老人の役員や管理職を崇拝するだけなら、学校歴や学歴をもった人間を採用する意味があるのだろうか。決して学歴差別をする意図はないけれど、頭で考える習慣がついている人間をわざわざ採用しておきながら、根性と服従と前例踏襲と年功序列ばかりやっているわけだから、学んだことが生かされないというわけではないにしても、学ぶ姿勢や考える姿勢はどんどん衰退していってしまうよなと思わざるを得ないし、根性・感情・多数決だらけの世界を生きるんなら、何のために社会を俯瞰したり疑問を持つ勉強をしてきたのだろうと、納得できないモヤモヤした感情が残る。