シゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか。

シゾイドと出来レース

 会議がとても苦手です。あらかじめ用意された台本を読むだけ、湧き起こる拍手まで台本に書いてあるというやり方は場から市ことこの上ないと思います。しかし、世の中、そういうものを愛でる人々が多いということなのでしょう。式典も同じです。人々が一丸となったように見せながらも、現実は隣人でさえも尊重できないというのが人間の限界。夫婦や友人などの身近な人間関係でさえも1つになることができないのに、他人同士や仕事だけの関係、世界中の人々が1つになることなどできるわけがないでしょう。そんなわかりきったことなのに、そうじゃないと必死にパフォーマンスするために膨大な費用と時間と人間が駆り出されていることに、誰も疑問を感じないようですね。

 学校行事からして疑問でした。道徳・文化祭・卒業式・入学式・始業式・運動会など、あらゆるものが毎年行われ、大して変わりもしない挨拶に拍手に練習が繰り返されるわけです。いい加減解放してほしいと常に思っていました。毎年同じように、実行委員がクラス中に罵声を浴びせ、イヤイヤ練習させられる同級生たち。意味もなく雰囲気が厳格な式典の練習など、いったい誰が満足するのだろうといった具合です。みんなで苦しむことを美化した組体操なんかも何年か前に批判の対象になっていましたね。私の学校でもあれは酷い文化でした。怪我人も出ましたし猛暑の中具合が悪くなりそうになりながら毎日練習させられていました。

 労働もそうですね。ブラック企業なんてそもそも存在していることが社会にとってマイナスですし、社員が過労死してまで必要な産業ってあるんでしょうか。運送業も、外食業も、消費者がきちんと対価を払わない文化がそうさせているのかもしれませんが、コンビニや自販機で買ってきたものをおとなしく自宅で食べていれば、そういったブラック外食産業で自殺する人間もいなくなりますし、エンタメに興味を示さなくなれば、ブラック広告代理店などもなくなるわけで、社会の闇というのはすべての人間が作り出しているといっても過言ではないのかもしれません。

 今後、私に予定されている式典は結婚式と葬式くらいでしょう。結婚も相手が複雑な家庭環境なので果たして無事に実現するかわかりません。そうなれば、確実なのは葬式ですね。他人の結婚式に出なければならないこともあるかもしれませんが、友人関係が皆無なのと、職場でも必要以上に誰かとベッタリしていないので、誘われずに済むかもしれません。

 24時間テレビのチャリティや見世物的に行われている慈善事業なんかも、こうした会議や式典と同様に出来レースだなと思ってしまいますね。現実に反した性善説の副産物を再生産し続けても結局は悲惨なニュースや閉塞社会の闇が形となって表れ続けますから、むしろ現実を認識したうえでできることをしようとか、物事の負の側面をきちんと踏まえて議論しようとかいう空気ができてほしいと願うばかりです。「いじめをなくしましょう」なんて、そもそも不可能でしょう。大人がしているんですから。