スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか

シゾイドと性別

男性と女性という性別がこの社会には存在する。そのどちらかに所属しなければならないという暗黙のルールが支配的だ。私もその一方に所属している。ただ、どちらの性をとっても、その一般的な傾向に当てはまることが極めて少なく、もはや第三の性別を用意した方が良いのではないかとさえ思えるときがある。

男性の好む話題に全然ついていけない。宴席などで男性だけになったときに、必ず話題になる「仕事の話」「政治の話」「人間(人脈や肩書)の話」そして「女性の話」がある。私はこのいずれにも関心がなく、ただ飲食や趣味の話をして適度な距離を保ちながら無難に終えたいタイプだ。

だとすれば女性の方が合うのかもしれない。ただ、女性も集団になると男女の話で盛り上がるし、ファッションなどの話はまったくついていけないので、これもまた長い時間のおしゃべりにはついていけなさそうである。結局、片方の性別が集団で雑談をすると、どんどん話が深くなっていくし、パーソナルな領域に侵入しやすくなるということなのだろう。

個人で見たらどうだろう。1対1や少人数で食事をするなどを想定してみる。これを考えると、男性でも女性でも変わらない気がするが、男性の場合はやはり(私と同性なので)、仕事や社会的地位、通過儀礼の話をするだろうし、女性の話をしたがるだろうから、ちょっと面倒臭い。

一方、知り合い程度の女性であれば、いたって平和な会食に終わる可能性がかなり高い。向こうも私と必要以上に距離を縮めようとしてこないし、私もそういう気持ちはないので、程よい感じに食事や趣味や余暇の話題を交わすことができる。

いずれにせよ、ポイントは「程よい距離感」にありそうだ。そしてそれは異性同士の方が作りやすい。一期一会とまではいかないにせよ、その食事の場だけの関係、くらいの付き合い方をすれば、平和な関係・楽しい関係が持続する。何かを変化させようとすると、拗れる可能性が高い。イチイチ恋愛や男女関係につなげたがる人にはこれは当てはまらないかもしれないが。

シゾイドと高校

高校時代、一つ上の学年の、ある生徒Aが悪ふざけをしていて、同級生である生徒Bに深刻な怪我を負わせたことがあった。命に別状があったり後遺症が残るようなものではなかったが、しばらく休まなければならない程度のものだった。学校は、その悪ふざけをしていた生徒Aを退学処分にすると発表した。

正直言って、生徒Aの素行は悪かったし、冷やかしたりちょっかいを出してくることも多く、しつこかったので、ここでAが消えてくれるのはうれしかったし、Aによって不快な思いをしてきた人は少なくなかった。

しかし、とても残念な出来事が発生した。その時の生徒会長が全校生徒に向けたチェーンメールを送りだしたのだ。私にもそれは転送されてきた。その内容は「生徒Aも反省していますから、皆で生徒Aを退学にしないよう署名を集めましょう」というものだった。

吐き気がした。何の青春ごっこだよと、ただひたすら気持ち悪さを覚えた。しかもそのメールの最後には「本件は生徒Bに何の罪もありません。責めないであげてください」と書いてあったのだ。生徒Bを責めないであげてくれって一体何様なんだろうか。生徒Bは怪我までさせられて普段も生徒Aの悪ふざけによって迷惑を被っていた。

にもかかわらず、生徒会はあくまでも退学処分にされた生徒Aに同情し、生徒Bを「責めないでやってくれ」という言い方をした。生徒Bが大事にしなければこんなことにならなかったかのように。まるで「いじめは被害者にも原因がある」という精神論者の妄言レベルだ。

私はメールを拡散することもなく無視した。署名もしなかった。生徒Bを見舞うことだけを行った。ただ、多くの同級生は署名をしていた。「お前もA先輩に署名してやれよ」と私に促す生徒もいたし、署名をしない私に対し、協調性がないと非難する者もいた。残念ながら当時親しかった旧友たちも署名をしていた。

組織とはそういうものだとわかった大きな経験だった。これ以降、私は組織に対して懐疑的であり続けている。猜疑心を常に持ち続けている。この高校は中高一貫私立校で、一応進学を意識した学校だったのだが、青春至上主義の人間が多く、こうやって問題児がお情けで猛威を振るっている状態だった。もう二度と関わることがない組織なので、どうでもいいが。

シゾイドとディストピア

無駄をなくすという行為は嫌われやすい。定例の会議、ベーシックインカムではない間接的な経済政策、人間による行動が最高とされる人間至上主義、作られたおもてなし文化の裏にあるブラック労働、社員を大切にしないブラック企業の社会貢献事業など、明らかに嘘くさいことが正当化され、誰も信じていないものをみんな信じたふりをしている。

それらを淘汰して富を再分配することや、人工知能に道を譲ることを人間は嫌う。人工知能によりこれほどに仕事が自動化されてきた今、労働至上主義は、1億人の国民に文化的な権利を与えることができなくなってきている。

十分な需要がなくなり、そこに人だけが溢れ、仕事のための仕事を作り、ひたすら搾取が行われる。にもかかわらず、相変わらず、人口を維持しなければならないという考えが支配的だ。支配的な程度はどのくらいのものだろうか。

そんなことを考えつつも、人口はやはり維持すべきだとされ、年寄りたちが、自分たちを支える人間が少なくなることを危惧している。年金を支払う労働奴隷がいなくなることを恐れているのだろうか。

年寄りが年金のあてを失ったのは、子供を育てにくい社会構造を今の年寄りが作った結果ではないだろうかと思う。人が生きにくい社会と重なり、特定の年齢層が減少する事象は誰によってもたらされたのか。それは嘗ての社会の構成員ではないだろうか。

年寄りや既得権者が若者にしたり顔で言う「自己責任だ」という言葉。まさにこれが、人口減少や少子化、結婚文化の衰退なのではないだろうか。自分たちがそういう社会にした結果、人間の命のリレーは絶対的な存在ではなくなった。それを受け入れることが昔の世代の責務であるように思う。

ただ前の世代の面倒を見たり過去を正当化するために生まれてくるのであれば、これからこの世に降り立つ新しい生命がとても気の毒だ。

ひたすら子供を増やせという考え方は危険だ。特に無計画な子作りは低社会層に蔓延しやすく、無計画な家族形成は子供の発育環境に悪影響を及ぼすし、そういった子供が学校や社会で害悪行動を繰り返す可能性もある。虐待問題も同様だ。連鎖する。戸籍問題も同様だ。

一方、昔のように「結婚したら・親になったら」一人前だという考え方も危険だ。世間体のために作られた命、愛情を受けずに親のアクセサリーになった子供も私は知っている。ひたすら人口を増やせばよいという考えは現世への拉致といっていい。とても危険だ。

親になることのハードルが低すぎる。更新型免許制にしてもいいくらいだろう。私は正常な家庭で育ったので運が良かっただけだが、そうじゃない人があらゆる社会層に存在する。環境の犠牲者だ。

人は生まれた瞬間にいずれ死ぬことが確定する。命を生み出すという行為は生み出された命に有限性を与えるということだ。若くして自殺するようなマイナスにしかならない人生を生きるのなら、生まれたこと自体が不幸だったと言わざるを得ない。既得権者の性善説で済む問題ではない。

シゾイドと祭事

テーマパークに行こうと、幼馴染に誘われている。個人的にテーマパークは苦手だ。あのへんな一体感、日常ではありえない人間の一体感や幸福の体現が、どうも作られた芝居に見えてしまう。人混みも苦手だからなおさらだ。しかし、テーマパークが苦手などといえばたちまち変な人だと思われてしまうのが今の社会。渋々参加するしかないのか、ちょっと迷う。

同じ景色が砂漠に見える人と楽園に見える人がいる。私は式典や祭りごとが大の苦手で、始業式、終業式、運動会、文化祭、会議、懇親会、夏祭り、結婚式など、あらゆる式典や祭りに対してあまりいいイメージがない。次第に沿って進めていく形式ばったあり方に意味を感じないし、何よりも会場の人間が1つになるかのような事象に違和感を持ってしまう。

そんなどうでもいいことを書いても仕方がないし、私の行事嫌いは治らないだろう。世の中の大半の人が行事を好み、適当にアレンジした日常生活の楽しみよりも、特別な時間に憧れる。私にとっては毎日が一度しか訪れない特別な日なので、行事に特殊性を投影する必要がどうしても感じられない。

人がある対象に群がる光景が苦手だ。自分がその中に入っていくことが億劫になる。数年間やっていたツイッターを昨年やめた。トレンドやプロモーションツイート、いいね機能など、流行や群衆集合的な要素がどんどんアプリやブラウザに盛り込まれ、細々と趣味について語っていた当初の雰囲気を感じられなくなったからだ。

こうして変わり者としての私の人生が作られてゆく。今後も、人混みを避けたり、行事を避けたり、祭りごとにできるだけ参加しないで済むようにしたりするだろう。そして周囲からはおかしな人だと思われるのだろう。今回のテーマパークについての結論がどうなるかは、今は未知数だ。

シゾイドと幸福追求権

以前に比べて鬱病や自殺が目立つ。これを世代の弱さだと主張する人間がいる。それについて否定するつもりはないし、勝手にそう思えばいいと思う。ただ、私はそういう考えは持たない。たとえば、30年前の日本では、紙の書類を作るだけの仕事が正社員の仕事だった。黙々と決まった事務をこなしたり清掃をすることも正規雇用者としての役割だったのだ。コピーをとったり、計算をしたりという作業も同じだ。

これはどういうことか。圧倒的な雇用と正社員の安定の椅子が大量に用意され、単純労働への対価が今の比ではなかったということだろう。賃金水準も物価に対して今よりも高い。教育投資の還元率も大きかったと思われる。バブル時代は尚更その傾向が強く、賞与や賃金水準が今の比ではなかった。

今の人間が所有に小教区的であることを弱さと罵ったり、男性の恋愛市場からの撤退を草食系と非難する人々がいるが、一方的に男性優位なバブル時代の恋愛を模倣したり、家や土地などの固定資産を買い漁ったり、ブランドや流行を追いかけたりする行動が果たして今の社会構造下で当たり前のようにできるのだろうか。

男性の経済的優位性は逓減傾向にあり、固定資産獲得の基礎となるローンを組むという行為自体が、正規雇用の崩壊でできなくなってきている。構造的に異なる事情を個性の責任に帰結する極めて深刻な風潮であると思う。

労働の話に戻す。単純労働の対価が高く、絶対数も多く、持続的な活動をする権利がそれに付随していた時代には、たとえば、性格が暗かったり消極的な人間でも、普通に働くことができたはずだ。黙々と単純事務をするための正規雇用も存在したし、それ以前に大量に採用していたからだ。

ハラスメントに近い茶番を極めた就職活動を勝ち抜き、奴隷のような研修に耐え、最初から低賃金で責任のある業務や対人折衝などを多く含む濃密な人間関係地獄に陥れられるような今の正社員型無制限雇用制度では、就職を志す段階で少なくない人が門前払いを食らっている。まるで社会や老害大国に適応できない人間は生きる資格がないかのような物言いの面接官も多い。

権利や法律に関することなどの話をすれば感情的に非難される。金の話をすればやりがいとか社会貢献だとかいう曖昧な言葉を用いてはっきりさせるべきところをうやむやにされる。世界中で日本だけが、労働が契約であるという概念を持っていないのではないだろうか。これは義務教育が金の話を扱わないことにも起因するだろう。

今やこうした単純労働の担い手は完璧に非正規労働者だ。つまり、機嫌の定めなしに単純労働をすることは許されていないということであり、単純労働で一生を終えることを否定されているに等しいわけだ。非正規雇用で一生困らない経済状況を得ることができるなら話は別だが、現実は男性の奴隷労働型終身雇用でしか自らの子孫を残すだけの経済力をつけることは困難だ。

残念ながらこの傾向は賃金による金の分配が続く限り終わらないと思う。これほど人工知能が発達しながらも、いまだに人間は人間こそが至高の存在であると思っている。全員とはいわなくても、大半がそう思っているだろう。だからチャリティに涙するし、これだけいじめやハラスメントが起こってもSNSでつながりを求める人々が多い。

ロボットはハラスメントをしない。接待されなくてもきちんと業務をこなすし契約も締結する。私利私欲に溺れるような感情もない。人間は、自らの価値やこれまでの経験の正当性を主張するために今の世代をひたすら叩き、高度成長期やバブル時代を「良き時代」「正しい時代」と崇拝し続けるだろう。

そもそもバブル時代や高度成長期を壊したのはその世代の人間であり、今でいう高齢者世代だ。ゆとり批判はゆとり世代のせいでこんな世の中になってしまったというが、世の中を形成しているのはその前の時代の若者であり、ルールでいえばその作り手はその時の年配者だ。原子力行政のように後世に負の遺産を残してくれるのだろう。

人間に求められる付加価値は大きくなる一方だ。単純労働の削減と徹底的な低賃金化、若年層に対する社会的虐待である非正規雇用や使い捨て雇用、それによる正規労働者へのしわ寄せによって、教育投資の回収はもはや一部の職業を除いて不可能だ。

東京五輪の準備作業員が過労死した。あれもしわ寄せ社会の典型だ。就職で求められる力ももはや曖昧で、人間が人間を評価できなくなっていることがわかる。だからコミュニケーション能力などという曖昧な言葉や評価でひたすら弱者の若者をマウンティングし、既得権者や前世代のマウンティングに従順な人間だけしか生き残ることができなくなった。生き残っても電通の社員のように自殺してしまうこともある。

20代の自殺がここまで多く、自分を肯定できない子供が目立っている。中高生は自分に自信がないからSNSを使って他人を虐げたり企業のパワハラや学校のいじめのように他人を出来レースのようなやり方で虐げ、マウントをとり、大人も特定の国や思想にヘイトを剥き出しにする。

人間は自分より弱い人間に対してだけ攻撃的だ。遊び歩いている資産家の子供のことをセレブと持て囃し、生まれた時から貧困だったり家庭崩壊の中で生きていてやむを得ず生活保護を受給している人間には蔑視を向ける。

人間は歪んだ。ただ生まれただけでは全く受け入れられなのだ。赤ん坊に向けられる優しいまなざしも、20年後のその子には向けられない。となれば、この国や社会に生まれる意味は何だろう。

幸福を無条件に追及することを誰もが許されるわけではなく、それを獲得するためにさえ競争を強いられるのだとしたら、最初から生まれてこないほうが幸福なのではないだろうか。こんなことを考えながら、私も少子化に貢献していくのだろう。

趣味や余暇は多様化したが、社会は決して多様化していない。特に社会=労働である日本においてはそれが顕著に感じられる。ますます心の酸素が乏しい時代がやってくるのだろう。子孫を残さないという究極の結論がすぐそこに迫っている。