シゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか。

シゾイドと進路選択

 シゾイドにとっての進路設計はかなり重要なものでしょう。対人関係に困難を感じたり苦痛を感じたりする傾向が強いのであれば、できるだけそういったリスクを回避する必要があるからです。そういう自分の性格に早期に気づいた場合は色々な進路設計ができますし、職業の大枠が確定する大学受験の前に自己分析ができれば理想だと思います。

 残念ながら私にはそれができませんでした。高校時代終末期には私はまだ友人関係を保持していましたし、自身がシゾイド傾向にあるという事実に鈍感でした。あるいは、シゾイド的性格を持つのは好ましくないものだと思い、意図的にそうじゃない自分を作り出そうとしていたのかもしれません。大学生活も大衆のような楽しみ方をしようとしていましたし、率直な気持ちに反することを試みて、結果的に、大学進学後に就職が迫ってから取り返しのつかない現実を認識したのでした。

 シゾイドの場合は、とにかく対人関係さえ何とかすることができれば、あとは乗り切ることができます。つまり、トラブルが起きにくい環境に身を置き、それを恒常的なものとすれば、将来は安泰であるように思われます。決まった仕事、決まった平和な人間関係、決まった拘束時間など、ルーティーン化された環境に囲まれることが、長期スパンで労働社会を生きる道なのではないかと思います。

 これを獲得するにはかなりの努力が必要で、たとえば業務独占資格を武器に自分自身を売り手市場に持っていくような実力が求められます。組織にしがみつかなくては生きていけない状況になってしまえば、その組織で虐げられてしまえばおしまいです。嫌なことや苦しいことから、先々の安心を確信しつつ逃げ出すことができる武器を、できるだけ学生時代に作らなければなりません。何度も言いますが、私はそれができませんでしたので、対人折衝が多い労働に胃薬を飲みながら耐えています。

 どこの組織に入っても、コミュニケーション能力は求められると誰もが言います。それは事実でしょう。ただ、コミュニケーション能力という定義があいまいで、業務を遂行する上での意思疎通ができることと、連日の接待や懇親会に耐えられる・楽しめる能力では全然違います。積極的な性格じゃないと働けない、生きていけないというのならこの世は自殺者だらけになるでしょうし、少子化も今の比じゃなくなるでしょう。暗かったり消極的だったりおとなしかったりする人も社会のどこかで生きていますし、生きる権利を与えられています。

 したがって、付加価値的なコミュニケーション能力が生きていくために絶対的に必要だという脅し文句に流されて、大衆と同じ進路、文系から民間企業を漫然と目指すという進路を選択するのは極めて危険です。つぶしが利く、追い込まれてしまったときにバッファー機能を発動しやすいなどといったセーフティーネットをきちんと身につけておくことが重要だと思います。

シゾイドとヒューマニズム

 人が人を幸せにする、人は最高の存在、人があってこその平和などという、人間の存在をひたすら肯定する文化を私は見てきました。愛は地球を救うと言いながら障害者を笑いものにするテレビ、他人をいじる文化を正当化し学校でのいじめ文化を定着させたバラエティにおける弱肉強食の人間模様もそのひとつでしょう。あらゆる残虐な行為が度外視され、刹那的・限定的な感動ストーリーによる人間の賛美、既得権者が蔓延する世界の賛美が行われる場面です。弱い者を虐待して権力者に媚びる私の上司もこのタイプに該当するのだろうと、チャリティを見るたびに思います。

 態度の悪い人間にレジを担当されるくらいなら、すべての商品を自販機で販売してほしいと私は思いますね。真心や誠意など、それを向けなければならない権力者だけに集中投入され、どうでもいい相手には徹底的なガス抜きと八つ当たりが待っています。そういう場面を無数に見てきました。それならば、人間が機械に置き換わってくれた方が、単一で安定した対応を受けることができるので、機嫌や喜怒哀楽のリスクがなく、こちらも安心できると思います。

 上司がAIになってほしいと常々思っています。いちいち機嫌を見ないといけませんし、決裁権を持った人間が組織の中ではすべてなので、相談や報告は避けられません。その際に相手が喜怒哀楽をむき出しにしてくると、想像を絶する苦痛が待っています。パソコンを相手に申込や問い合わせをするときには一切苦痛を感じませんよね。それと同じです。全部メールでやりとりできればいいのですが、それが許されない以上、相手の人間性に触れなければなりません。となれば、ムラのある判断、気まぐれ、好き嫌いいよる意地悪や差別は容認されたも同然でしょう。

 どんなに仲良くなった人間でも機嫌が悪い時は八つ当たりしてきますし、手の平を返すことがあります。家族でさえもそうです。その日の機嫌で言ってることが違ったり、気分が上がったがゆえに多様性を認めるような発言をしても、翌日には撤回されているなどは日常茶飯事です。いろいろな生き方があるといいながらも、自分たちと同じ生き方を正解だと思っている大人は多いです。

 人は人を救う以上に苦しめます。感情があるからです。感情は喜怒哀楽というだけあり、25%が攻撃性、25%が悲観ですが、悲観は嫉妬や僻みなどを通して攻撃性に変化することが多いです。つまり、5割が危害要因だということです。喜びや楽しさでさえも、相手を攻撃したり束縛したり見下したりすることによって得るものがありますから、多くの感情が他人への侵略と密接にかかわっていることは明らかではないでしょうか。

 いつでも同じように同じリズムで同じ対応をしてくれる機械に、私は強い慈悲を感じます。先が読めないことや攻撃されることを心配する必要がないので、絶対的な安心を得ることができるからです。性善説は死と隣り合わせです。

シゾイドと反出生主義

 命のリレーを無条件に肯定することに疑問を感じています。今現在、私は労働生活を経て人間関係全般に嫌気がさしていて、人間は他人を苦しめる存在であるというイメージを全面的に持っています。客観的に正しいかどうかは関係なく、主観的にそう思っています。人間はずるく、搾取する人間とされる人間がいます。搾取され、侵略される側の人間はひたすら苦しむ。自分から相手へ侵略しない不可侵タイプの人間は往々にして被害者となります。

 こんなことを毎日痛感しながら村社会の一派として息をしているのです。本当に息が詰まりますし、何のためにこんな労働生活を50年間弱も続けなければならないか、一向に理解できませんし、ベーシックインカムによってあらゆる苦痛から人間が解放されるのなら、満員電車もパワハラもすべてなくなるし自殺も減るのではないかと稚拙ながらに思っています。

 いじめを受けたこともなく、虐待されたこともないのに、なぜ私はここまで人間に対して性悪説のフィルターをかけてしまうのか、自分でもわかりません。ただ、学校生活で周囲の人間の攻撃性や卑劣な行為、教員の裏の顔などを繰り返し拝んだことによって、人間への警戒心が醸成されたのかもしれません。感情をむき出しにすることへの嫌悪感も大学入学時には備わっていました。

 大人になれば、学校で起こっている卑劣な行為や事象はなくなると思っていました。残念ながら現実は真逆でした。ハラスメントは大人もやっていますし、就職面接では既得権を手にしたバブル世代が猛威を振るいながら学生を自殺に追い込んでいました。世の中のあらゆる閉鎖空間で人間による残虐行為が行われているのだと知り、絶望しました。大学時代に出会った知人友人の中には家庭環境が悪い人もいましたから、家族の脆さ・不完全さも感じることとなりました。

 学生時代を抜け出せば安全などという「大人神話」が崩れ去った時点で、就職への失望と恐怖心が増幅しました。夢や希望を宣伝する就職サイトや説明会が騒ぐのを見て、詐欺に近いものだと思いましたし、就労した途端に、人間関係と搾取の構造、人間が人間に与える害が循環する構造が目の前に現れました。

 私はもう疲れました。この性格なのに普通の人間と同じように振舞うだけで疲れます。楽しくないことを楽しんだり、興味のないことに首を突っ込んだり、苦しいことをうれしいと言ったり、なんなんでしょうね。

 こんなことを思っているのが現実なんです。もちろん、私は鬱ではないですし、労働(強制的に理不尽な人間組織に束縛される時間)以外は純粋に人生を楽しんでいます。しかし、人生の大半を労働に奪われているのが今の凡人の生き方ですから、当然、大半の時間が「苦しい時間」となるわけです。そんな苦しみの連鎖が多くを占める人生を、果たして肯定できるでしょうか。肯定できないのであれば、子供を作ることはできません。苦しい世界に新しい生命を誘うことは、拉致と同じだからです。

シゾイドと人生設計

 この性格なので、いうまでもなく労働生活は苦痛です。労働が苦痛というよりは組織の中で他人と近い距離に何時間も拘束されながら上下関係により上司の喜怒哀楽に左右されるのがつらいという感じでしょうか。上司が人工知能だったらストレスはゼロになると思います。他人に対して身内みたいに感情丸出しにして関わってくる人は本当に苦手です。他人行儀によそよそしくしてほしいくらいですね。

 私は人生で一度も「無視」をされたことがなく、受けた嫌がらせは大体が冷やかしか執着です。構わないでほしいという願望を常々人間関係で感じてきました。残念ながら労働において無視されることはなく、窓際に追いやられた再雇用のジジババが空気のように8時間黙っているだけなのを見てひたすらうらやましく思う始末です。彼らは他人から圧迫される恐怖もなく、電話が鳴る恐怖もなく、何か他者と自分の関係に変化が起こる恐怖もなく生活できるのです。本当にうらやましい。私も誰からも話しかけられずに夕方を迎えてみたい。そんなことを毎日思っています。

 学生時代に理系だったのですが、シゾイド傾向が強くコアな実験系分野に進むことを恐れ、専門性の低い専攻に進み、結果的に今は事務職(総合職なので接待や会議や対人折衝が多い)についています。コミュ障なのにコミュニケーション能力が求められる仕事をしているので、本当にやめたくなります。だったらさっさとやめればいいだろうと思われるのですが、結局、周囲の目だけを気にして現状を脱することができていません。情けないです。一応明日クビになっても働ける資格を取得済みなのですが、周囲が反対するに決まっているという現実があるので、毎日人生を消化しているだけです。もったいないです。

 なぜ、対人折衝にこれほどの苦痛を感じる性格だとわかっていながらも、準備ができなかったのでしょうか。もっとつぶしが利く専門に進もうとか、医療系に進もうとか、そういうリスクヘッジをしてもよかったはずです。それができなかったのは、一時的に対人関係が上手くいっていた高校時代にあります。高校時代に下手に交友関係が人がってしまったので、自分も普通の人間と同じように人間関係を楽しみ、組織で生きていけると過信してしまったのです。これが大学受験で油断してしまった大きなきっかけにもなりました。本当に私は愚かな人間ですね。

 就労して3年が過ぎ、貯金も700万円を超えました。余暇も楽しみつつそれなりに貯金ができているのは、ファッションや付き合いに金がかからないからでしょう。これが1000万円になったら少し働き方を変えたいとも思っていますし、私のような人間は子供を持つことも子孫を残すこともないでしょうから、仮に結婚したとしても、莫大な資金を必要とすることはないでしょう。夫婦共働きであれば、極端な話ですが正規労働者でなくても生きていける気がします。

シゾイドと飲食

 好き嫌いはありません。外食や出された飲食物に対して不満を言うこともしませんし、あまりマイナスなことは感じません。不要な贅沢や願望やワガママを言ったところで、場の空気は悪くなりますし、作った人を嫌な気分にさせますし、自分自身も食事を楽しめなくなるからです。嫌なら自分で材料を買ってきて作ればいいし、好きなものを自分で選べばいいからです。わざわざ外食などで他人の作ったものに期待し、それでいて自分の口に合わなかったら文句を言うなんて論外だと思います。

 盛り上がったりするのも苦手です。バカ騒ぎをしたり接待しながらの食事は、作った人に失礼ですし、散々席替えをしてペチャクチャ喋った後に自席に戻って冷めた料理を味わいもせずにかきこんだり残飯を出したりすることにどうしようもない人間の愚かさを感じます。食べ物や産業が大事だと言いながら、飲食を蔑視するかのような態度をとる人間や、対価を払った後に自業自得な文句をたれる人間をたくさん見てきました。激しい違和感を覚えましたが、職場の人間や公的関係にすぎない他人は、わざわざそれを指摘するだけの関係ではないので放置することにしています。

 飲食の時はできるだけ料理や飲み物に集中したいですね。進路や仕事の話はできるだけしたくないです。冠婚葬祭の話題も雰囲気が圧迫的になりやすいので苦手です。できることなら議論もしたくないです。議論は人を攻撃的にしますし、そっちに集中しないといけないので、食べ物の味がしなくなります。だから上司を含む職場の人との会食はどんなに美味しいものを食べても一切味の記憶が残らないので、強制参加ではない場合はできるだけ断るようにしています。財産である時間を搾取されている気分にどうしてもなってしまうのです。この辺は、私がシゾイドだから楽しめないということもあるでしょうから、個人的な問題かもしれません。

 しつけやマナーなども、相手に迷惑をかけていない限り私は気にしません。気にする人に対しては注意を徹底しますが、私は、相手がどんな食べ方をしようが一切不快にはなりません。食べ物を粗末にしたり食事中に喜怒哀楽をむき出しにすること以外はすべて容認します。不快だと思うなら一緒に食べなければいいからです。1人で食べる自由を得ながらも自分が選んだ相手の個性や性格を否定することには何の意味もないと思います。だからマナーだとかしつけだとかで食事の雰囲気を悪くする家庭に生まれた人は気の毒だと常に思っています。厳しくされなくても最低限の他人への配慮は身に付きますから。

 食事を楽しまないのに外食や会食を好む人ってよくわかりません。わざわざ他人や環境を用意しておきながら、それを大事にしないで嫌な時間を過ごして自分も相手もストレスをためるという時間の消費方法に、何の意味があるのでしょうか。人生を溝に捨てるような行為が多い気がします。特に労働の付き合いの中の会食はほとんどこれに該当する気がしますね。