スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか

シゾイドと縁

亡くなった祖父母の年賀状がいまだに届いてしまう。すでに挨拶状も出して報告もしているにも関わらず、2度目の誤発送となる。本来であればその都度知らせるのだろうか、その辺はちょっとわからない。同世代となれば年賀状は子供や孫が代行作成している可能性も高いし、他人の近況を逐一把握しているとも思えない。

ただ、差出人が、祖父母が亡くなったことに気づかず、または認知症などで正確に理解することができないのであれば、その人の心の中で、祖父母が旧友としてずっと生き続けているということにして、自動発送されているような状態の年賀状でも、ありがたく受け取っておくというのも悪くないんじゃないかと思っている。

介護に奔走した震災後の数年間を思い出す。

シゾイドと入試問題

卒業式で答辞代表が泣いている。用意した原稿を読み上げることも難しいくらい号泣しており、周囲の人間ももらい泣きをしている。そんな場面を思い浮かべてみていただきたい。多くの人は、この朗読者がこれまでの学校生活を回想して感涙しているものと想像する。または、来る別れへの寂寥感に耐えられなくなり、感情的になっていると思うだろう。これが小説だとしたら、国語の問題に使われたとしたら、こうした出題がされ、こうした選択肢が正解となるはずだ。 

【問題】この場面で答辞を読んでいる生徒の気持ちはどのようなものか。 

【正解】これまでの学校生活を回想して感涙している。 

これに準じた解答となることに疑いの余地はあまりない。「答辞など読みたくもないのに無理矢理人前に立たされ、苦痛で涙を流している」という選択肢は絶対に正解にならないし、選択肢にすらならないだろう。日本の国語教育における小説問題の大半がこのような内容だ。行動から感情を読み取る訓練をひたすら強制され、作者以外の人間が正答を用意する。数値や論理的根拠によるものではない解説が、共通テストのようなものでも散見される。 目の前にいる人間の行動や態度だけでその人間の感情を理解することは不可能だ。行動で相手を理解できるのであれば、人間関係のトラブルがここまで生じることはないだろう。行動が相手の内面の様子を客観的事実として投影しうるものであれば、主観を相手に押し付けることもないし、他者に過剰な期待をすることもない。1分で30枚印刷できるコピー機に1分で100枚印刷することを期待する人間はいないだろう。それと同じである。 

人は相手を断定することが好きだ。相手に関する断片的事実を勝手に自分の中で再構築し、相手のキャラクターや人生を突然語りだす。台本通りに演じただけの芸能人のたった一言で、その人の波乱万丈人生バラエティが完成してしまうほどだ。本当に波乱万丈な人生なら、その人は今、台本に書かれた文字を読むことすらできないはずだ。波乱万丈という言葉だけが独り歩きする。「あいつはこういう人間だから」と友達や親や子供や配偶者にレッテル貼りをする。「あの人のことはわからない」といえば、薄情だと思われるのだ。 

「わからない」ことが悪いことであると解釈されることが多い。「あの人よくわからないよね」は、もはや悪口の1つだ。「よくわからない」=「自分は相手を受け入れない」と勝手に置換される。「よくわからない」ものを「受け入れたくない」から、「受け入れずにすむ」ように「想像で相手を断定」し、「わかる」ものへと変換する。わからないものだらけの世の中や人間関係のすべてが「わかったもの」とされ、妄想上の理解が進化し、その最終形態が「24時間テレビ」である。 「愛は地球を救う」という言葉。誰にでも理解できるこの言葉に本気で涙を流す人がこの国に多い。朝の通勤電車で小競り合いをする程度に心が狭い人でさえ、この世界観に陶酔する。愛とは何か、地球とは何か、救うとは何か、パーツに分解してみると面白い。どこに愛があり、誰が救うのか、これを明確にできる人はどれだけいるだろうか。国語の授業が全科目中最大であるにも関わらず、言葉の重みがわからない人間が量産されるのがこの国の実態だ。 

「苦労があったからこそ今がある」「障害を克服してこそ今がある」「恵まれない生い立ちが自分を強くした」「苦しんだけれど、貴重な経験だ」こうした言葉を、何の苦痛も味わうことなく既得権側にずっと鎮座していた人間が発している。得体のしれない他人様に関する物語を構築し、自分の中で勝手に納得し、それを周りに流布し、押し付ける。発信できる人間がますます支配的になってゆく。受信する側も無知になり、思考停止しても立場を守れるよう、権力に追従する。 

入試改革が行われ、多様性が重視されるようだ。国語は記述式が導入され、選択肢ではできなかった「精度の高い評価」ができるようだ。試験の内容に焦点が置かれ、誤魔化されているが、要するに「科学ではなく動物が、人の能力を評価するようになる」ということだ。既にお分かりいただけているだろうが、今の時点で国語の試験における選択肢には無数の「決めつけ」が施されており、マイノリティーが排除されるようになっているのだ。これらの操作主体が科学から人間に代わるということである。結果は容易に想像できるだろう。「答辞など読みたくもないのに無理矢理人前に立たされ、苦痛で涙を流している」が正解の1つになる日は来るだろうか。

シゾイドと40年

すでに機械化や非正規化によって単純事務を正規労働者が行うことはほぼなくなり、非正規や機械によって置き換えられている。だから新卒で事務職で入社しても、ルーティーンなどの業務はなく、人を管理したり、企画を求められたり、とにかく即戦力を要求され、低賃金で上司の若手時代とは比べ物にならないほどの負荷をかけられることがある。そしてそれに耐えられないと世代のせいにされたり、精神論で定型化されることがある。昔の人間はまともで、今の人間はおかしいといった主張を人口数の暴力で正当化し、景気や社会的需要の度外視した現役世代へのバッシングが今日も新聞などのメディアで騒がれ、ニュースでは何も知らない芸能人が多額の金を自分のものにしながら、貧乏な若者を叩く。

幼小中高と子供に夢を与え続ける学校。教員は自分のやりたいことを見つけようとさせようと必死だ。やりたいことなど実際にやってみないとわからないのに、表面的な印象と断片的な知識、ブランドだけで、学生に夢を持つことを強制する。それが「キャリア形成」の第一歩となり、仕事に対する幻想を受け付ける。実際には、労働は苦しいことが多く、特に文系就職(会社へ就社する場合)の場合は総合職採用でも一般職採用でも、正規労働者には必ずジョブローテーションが伴い、強制された環境で上司や組織に一方的に服従することが求められる。だから、夢ややりたいことなど、結局は「後付け」にすぎない。管理職や強い立場になった時に、そこにある自由を前提にするからこそ「仕事がやりがい」などといえるわけで、渦中は禿げるくらい悲惨で単なる縦社会だ。

このジョブローテーションという罠は、就職ではなく就社する場合にはかなり注意であって、技術系のように最初からやるべきことや専門分野がある程度固定されている場合とは大きく異なり、何もできないということは、すべてやらされる可能性があるという危機感的基本原理を、学生のうちから把握しないと、とんでもないことになるだろう。そして、就社で済ませようとする場合、組織生活や集団生活に過剰のストレスを感じる性格であると、先は明るいものにはならない。常にストレスを溜め、30代で成人病にかかり、ストレスに伴う様々な疾病によって労働から解放される年齢に届かずに死んでいく。組織にしがみつかなければ生活が危うくなるという精神的負荷が常にかかるのだ。

同じ環境に40年間いるというのは、日本の男にとっては当たり前なのだろう。男は一生働く、連続的に、休まず、経験も積み、それが正解である、それを誰もが望んでいる、という固定観念とそれを軸に回っている社会。帰属意識を苦にせず持つことができない人間は、生き方の多くを奪われる。高校の時点でこの性格に気づき、どうすれば人間関係によって即死しないかを考えられるかどうか。それが生死を左右するのかもしれない。学校のように、休暇によって息継ぎをすることが許されたり、数年ごとに環境を変えてやり直しができるシステムが整っていれば、自殺も鬱も引きこもりも少子化も晩婚も犯罪も非行も虐待も望まない妊娠も貧困も詐欺も不況も少しは改善するのではないかと思うし、根拠のない妄想で若者の甘えと叩き潰されそうなこの記事も、少しは書きやすくなるのかもしれない。

シゾイドと天気急変

機嫌によって態度が変わる人間は山ほどいる。八つ当たり、ダブルスタンダード、罵声、皮肉、嫌がらせなど、凄惨な光景を目の当たりにし、自身もその犠牲になったことがあるので、その所在は無数にわたることが容易に想像できる。それは仕方がないことであり、いやな思いをしないように感情を殺すかスルーして聞き流す、あるいはそう言われないように事前に予防したり人間関係に深入りしないようにしたり、おとなしくするといった方法があるだろう。

ただ、そのときによって全く違う意見をされると、困惑してしまう。何をすべきか、何を選ぶべきか、何が望ましいかなどの相談事について、昨日言っていたことと今日言っていることが全く違う。昨日は賛同していたのに、同じことを翌日に話すと失笑したような批判をされることがある。こうなってくると、その人にはもう相談はできないと思うし、重要事項は自分で決めるか、その人ができるだけ感情をむき出しにしないような個体を発出してその場を収めたいと思ってしまう。瞬時に信頼がなくなる。信頼がなくなるというか、同じ答えを期待しなくなる。

シゾイドと惰性

理不尽な待遇を受けていると、いつしかそれが当たり前になる。受け手がそれでいいと思ってしまうと、理不尽を他人に与えている人間は「他人の自由を奪う権利」という当たり前を手に入れてしまう。これがとても悲惨な問題だ。

自分が我慢すればいいと自虐的に他人の横暴を許す人は多いが、それは結果的に犯罪者を野放しにするように、他の犠牲者を量産し、こうした理不尽を他人に与えるようながん細胞のような人間が際限なく子孫繁栄を繰り返し、悲惨な事件、望まれない出生、虐待事件、非行事件、性犯罪、凶悪犯罪などが相次ぐ。

そして正常細胞は破壊され、理不尽が我慢するもの、少数派が我慢すればいいもの、権力者や既得権や老人や裕福世代の横暴は許されるもの、いじめや虐待も自己責任なものというとんでもない世論が完成し、人類が相互に他人を搾取し、互いにストレスをためあい、そのストレスは当事者の双方でもない、最弱に生きる第三者に向けて八つ当たりという形で発散される。

こういうことを何の違和感も反省もなく繰り返す人類。いつまで続けるのだろうか。いい加減、すべて絶滅してほしい。感情のないロボットの方が100倍ましだ。人間は他人を傷つける。人間を傷つけるのは人間だけだが、人間を幸福にするものは人間以外に幾多にも存在する。

ヒューマニズムが生み出した幾千もの悲惨な人間の営みと連鎖する不幸な生誕と繰り返される自殺、何百年たっても不都合は見えないものとして処理され、汚泥だけが無秩序に蓄積する。