シゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人工知能は人間よりも優しい存在になりうるか。

シゾイドと甘え

 基本的に他人には寛容です。自分に厳しく他人に厳しくといった世界は窮屈で息苦しいですから、他人には徹底的に寛大に接します。そして他人が自分に厳しくならないように誘導することも欠かせません。そうやって「穏やかな関係」を定着させていくことで平和を維持します。

 家族、友人、知人やパートナーにも寛容です。相手のいうことを否定しませんし、どんな意見にも言い分があると思っていますし、差異は宿命だと思っています。自分の意見と違っても議論で一方を正当化することはしません。衝突するくらいなら適当に譲歩します。相手が怠惰な性格であったりルーズでも怒りません。唯一反対の意思を見せるのは「攻撃」行為があったときです。侵略的攻撃は人間関係の平和を乱すので、その防止には妥協を許さないようにしています。

 同僚が仕事をしないとか、友人と話が合わないとか、妻・夫が家事をやらないとか、そんなことどうでもいいじゃないですかと個人的に思います。同僚が仕事をしないのならば自分がすればいいし、残業してまで背負わなければならないことはしなければいい、話が合わない友人に憤りを感じるなら付き合い方を変えたり付き合う相手を変えたりする、妻が家事をしないなら自分が家事をするか、家事をしない人とは結婚しないという具合に、適当に諦めてしまえば自分も相手も楽です。

 誰かの甘え行為に対して批判しても、相手が病んだり怒ったりおかしくなってしまうだけで、結局自分もすっきりしないと思います。他人に怒りをぶつけても他人は他人ですから自分の思うようにはいかないですから、どうせ変わらない結果のために喜怒哀楽をむき出しにしてエネルギーを消費することや険悪な空気を作ることに意味があると思いません。だったらすべてをほどほどなものとして受け入れ、他人に甘くなる代わりに自分もそこそこ力を抜いて生きてみてはどうでしょうか。

 全員で厳しさを共有する今の社会はいきづらいです。自殺者も多いですし、こんなに人が自殺する先進国は日本だけでしょう。社会や世間のプレッシャー、親のプレッシャー、配偶者のプレッシャー、こうあるべきだとかあああるべきだとかこうじゃなきゃいけないとか、そんなことのために命を落としたらもったいないと思います。命以上に大切なものはないです。それを失うくらいなら厳しいルールや崇高な理想を全部捨てた方が遥かにマシです。それを捨てても死にやしませんから。

 スパルタ教育とか根性論って、何の意味があるのでしょうね。スパルタ女子校とか私立にありますけど、自由奔放で私服で学校さぼり放題の公立高校の方がよほど大学受験やその後の人生で適応できている例は山ほどありますし、いい加減「根性論」や「苦労至上主義」「厳しさ至上主義」はやめたらどうかと常々思います。誰も幸せにしないいがみ合いの社会を続けるより、肩の力を抜いて自分も楽をして他人にも余裕をもって接したほうがいいと思うのですけれどね。

シゾイドと外敵

 人によって態度を変えることを好みません。飲食店の従業員やビルの清掃員などに高圧的な人って結構いますが、ああいうことをして優越感に浸れる人の気持ちが私にはわからないですし、自分はそうしたいと思いません。

 労働社会を見ると常々思いますが、人間は苦しみを循環させるのが得意なように思います。仕事でストレスをためつつも外面だけは良くして、家族や友達の前では「本音」という名目で散々ワガママを言ったり当たり散らすといった具合に。それなら最初からストレスの原因を取り除いて身近な人間を大事にしようとは思わないのでしょうかね。

 「みんな我慢しているんだ」といいながら既存のストレスシステムを代々なぞることが良しとされる風潮は残念ながら今後も続きそうですが、そろそろ労働自体が不要になってきそうですし、人間が苦労第一主義で相互に我慢を強制しあう社会も終わりを迎えるのではないかと思います。部活や体育会系、根性論やブラック企業なんかも、何の根拠もない努力神話を強制してくるだけですから、それを強いる側の人間だけが旨味を独占していると言えますし、奴隷制に近いです。束縛されることが快楽だという奴隷精神の人も中にはいますから一概には言えないですけれどね。

 いずれにせよ、私はこうした特定の思想を強制して他人の自由を奪おうとする人間やそういう思考が大嫌いです。何かをやりたければ自分1人でやればいいんじゃないでしょうか。そのやり方が魅力的なら他人もついてきますし、他人が自発的に同じことをしたがらないということはその行為に魅力がないということでしょう。そんなことをわざわざ人生という財産を費やして苦痛を味わいながら続ける意味はどこにあるのでしょうかと思います。

 学校でも労働環境でも、強制する人間はいますし、侵略してこないでと不可侵条約を締結することは難しいでしょう。そのため、侵略者との関係性をきちんと確立しておく必要があります。厄介な人間には必要以上に遜ることなく、親しくすることもなく距離を置くことが重要でしょう。相手の意地悪のターゲットにされても困りますし、かといって中途半端に師弟関係扱いされれば仮に親しみがあったとしても都合のいい奴隷にしかなりません。

 人は究極の気分屋なので、一時の感情で安易に心を開いたり相手の善意を信用したりすると思わぬ災難に遭うこととなります。大抵の人間は立場を利用して横柄な態度をとりますし、日本は年功序列なので、組織の中では年齢が絶対です。だから年齢を駆使していくらでも理不尽なことは怒りますし、いじめやハラスメントは永遠になくなることはないでしょう。侵略クラスターがすべてAIに置き換えられて死滅すれば話は別ですが、他人に先制攻撃を仕掛けるタイプの人間が生き続ける限り、完璧な平和は訪れることはなく、攻撃の受け手はいつまでたっても救われずにストレスを蓄積させることになります。事前の対策が必須です。

シゾイドとメンヘラ

 「欲がない」「無欲だ」と言われることが多くあります。私は人生において3つのことをタブーとしています。それは「比較」「干渉」「期待」です。

 期待について、人間は無数に存在しますし、相対評価をしようとすればきりがないからです。名誉・社会的地位・財力・容姿・家庭・健康と無数に存在する人間の価値判断のすべてを理想通りにすることなど不可能です。だったら最初からすべてにおいて徹底した妥協を試みて、心の余裕を獲得すべきではないかという考えです。1つ欲しがれば2つも3つもと欲望は拡大しますし、鏡に映る自分の姿を制限しているうちにあっという間に年老いてしまいます。時間は有限ですから、不完全な自分を認めてできる範囲で最大限人生を楽しく生きた方がいいと思いませんでしょうか。

 干渉についても同様です。他人について、何か思い通りに動いてほしいとか、他人が〇〇じゃないからなどという理由で、イチイチ不満を持ったり、穏やかじゃない気持ちで過ごす時間はもったいなくありませんでしょうか。他人は自分と異なる個体で、脳も別々なので、自分の気持ちを察することはできませんし、行動に起因する思考回路もまったくの別物です。だとすれば、他人が自分の期待通りに動くことがどれだけ難しいかは想像に難くないはずです。自分の満足は自分のことを誰よりも知っている自分で作るしかないです。相手はあくまでも相手の人生の主役であり自分の人生のわき役でもありませんから、他人と自分を徹底的に切り離して考えることこそが、他人の個性を尊重することだと私は思っています。

 期待についても、他者への期待については上に書いたのと同じです。人以外についても、たとえば社会や世の中は人が作っているので人に期待できないのと同じで、できることといえばその現実の中で自分が一番いいと思う選択肢をきちんと選んで生きていくことだと思います。商品や飲食についてもそうです。気に入らないのなら別の選択肢をとればいいだけの話で、対象への不満をぶつぶつ言いながらそれに執着するのはいじめやストーカーと同じでしょう。

 私も相当な変わり者ですし、心を病んでいるように思われるかもしれませんが、私はいわゆる「メンヘラ」と呼ばれる人たちのように他人には執着しませんし、誰に対しても自己と他者の関係性の限界を意識して関わっています。友達や恋人に必要以上の期待や妄想をして、相手が思い通りにならないと病んだり暴れたり自傷行為をするようなことは絶対にしません。それ自体が、他人の人権を侵害していることに他ならないからです。

 結局、あらゆることを諦めることこそが心の平穏につながるような気がします。諦めるというのは悲観して自殺することではありません。事実を事実と受け入れて、できる範囲で人生を楽しむことです。明るい諦観主義とでもいえるでしょうか。

シゾイドと趣味

 趣味は街歩き・飲食・交通関係・家事です。あてもなく住宅地や商店街、再開発された広い歩道などをプラプラするのが好きです。普通の人が気づかないような小さな発見をするのが楽しくて散策はやめられません。そういう街歩きで飲食店に出会います。面白そうなお店に入ったり、ちょっと変わったものを飲んだり食べたりすることが面白いです。そこのオーナーと喋ったりするのもいいですね。基本的に一期一会は大切にする方で、匿名性の人間関係に近いものは大事にします。しがらみもないですし、純粋に相手のことを知ろうと思えますから。利害関係もなく、単純なものなので、少しでも共有する時間や空間をいいものにしようと思いやすいんですよね。

 交通は幼少期の乗り物好きが影響しているのですが、専ら公共交通や道路・鉄道路線とその沿線を散策したり、交通機関の混雑やダイヤ、人の流れなどを把握することに関心を持っています。交通事情はあらゆる人の流れを反映したものなので、それを追うことで街の様子や人々の生活の様子を理解することができるので面白いです。また、人混みが苦手なので交通網を把握することは自分自身の移動の快適性を実現することになりますから、とても実用的な趣味といえます。

 そのほかの趣味としては、家事があります。皿洗いをしたり、料理をしたり、買い物をしたり、家の掃除をしたりすることがとても好きで、昔から部屋の片づけなどが得意でした。家のことをしていると時間を忘れますし、黙々と単純作業をすることがまったく苦にならないので、社会労働よりもはるかに強い充実感を持つことができます。結婚するなら夫婦で緩く働くか自分が主夫になりたいですね。男は仕事人間で女は家庭という古い考えがとても苦手です。

 無趣味な人が多いといわれていますが、個人的にはそうは思いません。多くの人がテレビを見ますし、芸能人やエンタメに関心を持っています。SNSで色々な人の近況や社会的地位などを覗き込んでは勝ち組負け組などと一喜一憂している人も多いです。労働現場でも、金にならないような名誉を獲得するために労働に人生を注ぎ込んでいる人が無数に存在します。スポーツ観戦が好きな人は多いですし、スポーツ観戦に興味がない人でもオリンピックには盛り上がります。何かに熱中したり執着したりする人はたくさんいます。

 にもかかわらず自称「無趣味な人」が多いのは、おそらく「人間以外に対する関心」に分類される趣味が少ないからでしょう。私のように人間が関係するあらゆることに関心がなく、機械や交通や科学、飲食を楽しめれば十分だという人は少ないのかもしれません。人が絡むと他人に何かしらの期待をしてしまいますし、期待は理想の投影なのでその通りにならなければ不満に変わりますから、あまり安全な感情ではないと思いますから、私は自分1人で達成できる満足しか求めないことにしています。

シゾイドと生きづらさ

 労働生活が純粋に苦しいです。人間関係に疲れますし、組織の中では年功序列が完全な強弱関係になっているので、若いうちは奴隷です。他人の気分の上がり下がりや根拠のない機嫌にイチイチ左右されなければなりません。立場が強い限り、その人は絶対的な権利を持っていますから、不平等であれ不道徳であれ、いかなる手段を使ってでも我田引水の行動を試みてきます。そこから身を守るために1日8時間以上もアンテナを張り続けなければならないというのはもはや拷問以外の何物でもないでしょう。普通の人ならそういう人間模様を含めて楽しめるはずの社会生活を、私はこう解釈することしかできないのです。

 一度こう思ってしまえば、もう明るく働くことなど無理で、繕った無理のある顔といち早く村社会を脱出したいという切実な願いが態度に出てしまうことは免れません。だから本当の意味でやる気のある人間との差が明らかですし、それゆえに労働至上主義者からは侮蔑されます。侮蔑されて評価が下がって出世できないとかであれば大歓迎ですが、年齢給なので上がらないわけにもいかず、必然的に無限責任が要求されます。

 周りの目のせいにして自ら正規労働者をしているのに、派遣社員が羨ましかったり、限定的な職務で定時にすぐに帰ることのできる契約社員が羨ましくなることがあります。情けない話です。対人折衝がない正規雇用などないですし、私のような人間はこれからもただひたすら己の能力のなさの代償を払う形で忍耐を続けていくしかないのでしょうか、などという醜い愚痴を零してしまいそうになります。

 バカンスがないので、連続で気が休まるのは最長で10日間程度しかありません。10日間が過ぎればまた対人折衝の苦痛が待っていて、死ぬまでその繰り返しという運命を3年が経過した今でも受け入れることが容易ではありません。これを受け入れることは死ぬまで無理でしょう。緩い働き方が許容される文化が私の周囲に発生するか、私自身がしがらみを断ち切って孤立する以外にありません。どんなに特殊な人間でも普通の家庭を持ち、普通の人生を歩むことを肯定するでしょうから、難しいですね。

 それ以外では特に今のところ生きづらさはありません。誰かに期待することもないですし、男女関係や友人関係に悩んでいるわけでもありません。自分の満足を自分自身で作っていくのみですから、いたって単純な毎日です。ただ、労働という私が背負える以上の濃密な人間関係に苦痛を覚えるこの生活に、ときどきどうしようもなく耐えられなくなるのです。

 社会の闇はたくさんあります。心が痛むこともありますし、相対的に見て私が恵まれた環境と生い立ちであることはいうまでもありません。しかし、そのようなアドバンテージの所在や比較ではどうにもならないほどに、この国の労働至上主義が私には理解できず、受け入れられないのです。人生の大半を社会生活・社会関係に捧げる生き方。生まれてきた意味はどこへいったのでしょう。